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松之山情報館-あちこたねっと-

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名刀蛇切丸 | 松之山に隠れキリシタンはいたのか?

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松之山に隠れキリシタンはいたのか?

○かくれキリシタンとは…

1549年フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えます。
当初は布教がなかなか進みませんでしたが、ヨーロッパとの貿易(武器、珍しい物品)による利益に目を付けた大名によって保護され急激に広まっていきました。
キリスト教の急激な信者増とその結束力の強さは、天下統一を目指す豊臣秀吉や徳川家康にとって徐々に恐ろしい存在となり、キリスト教の取り締まりを強化していきました。

豊臣秀吉-1587年伴天連追放令、南蛮貿易は容認したので徹底せず。
徳川家康-1614年禁教令発令。キリシタンへの弾圧強化。拷問。処刑。

さらに江戸幕府は、
1639年ポルトガル船の来航禁止=鎖国の完成。
宗門改め-寺請制度、絵踏、五人組連座制、類族張などキリシタンの迫害を強めます。
それは1873年信仰が許されるまで250年も続きました。

この間、キリシタンの選択肢は自ずと絞られてきました。
・殉教-拷問されてもキリスト教を捨てずに、処刑される
・棄教-キリスト教を捨てる。
・潜伏-仏教徒のふりをして、密かにキリスト教を信仰する=かくれきりしたん

そして長い年月の間に、隠れ蓑の仏教や神道、あるいは土俗的信仰と結びつき本来のキリスト教とは異なる形となっていきました。


○松之山にかくれキリシタンがいたのか?

松之山には松陰寺のマリア観音はじめ、10カ所・12体の子安観音や子育地蔵が点在しています。
しかしこれら全てをキリシタン遺物と決定づけるだけの物証はありません。
この他に遺物は発見されていないのです。
松之山では古来、乳幼児の死亡が多く子育てが困難であったことから、
子供の健康を神仏に祈るために子安観音や子育地蔵を生み出してきました。
巧妙に作られているマリア観音を仮にキリシタン遺物とするならば、
弾圧を逃れるために子安観音や子育地蔵に信仰の対象を求め、
土俗的信仰に形を変えていったとも考えられます。

マリア観音

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  1. 2006/11/04(土) 15:07:22|
  2. コラム

名刀蛇切丸

ある日のこと、北浦田村の高沢家(屋号小坂)に
24、5歳の若者がみすぼらしい姿で訪れ、
「しばらく置いてください」と頼んだところ、
主人は快諾しそこに住むことになった。
若者は大変働き者で、いつの間にか
一家に無くてはならない存在になり3年が過ぎた。

ある日、若者は今まで一切語らなかった身の上話を切り出した。
「実は私はこの上にある鼻毛の池の主です。
3年前蒲生の池の主に頼まれ、仲人を引き受けました。
信越国境の野々海の池に適当な婿がいることを聞き、
はるばるこの池を訪れ
『蒲生の池はこの辺では大きな池で姫も美しい。
年頃になったので婿を探していたところ、
こちらによい若者がいると聞き、訪れた次第です』
と頭を下げてお願いしたところ、野々海の池の主は
『あんな田の水や汚水の流れ込む汚い蒲生の池なんかに
大切な息子をやるわけにはいかない。
とっとと帰れ』と剣もほろろに断られた。
私はカッとなってかみ殺そうかと思いましたが
歯をかみしめて我慢しました。

帰って蒲生の主にその委細を伝えましたところ、逆鱗しましたが
何とかなだめて、恨みを晴らすときまではと
お互いに剣を磨くことにしました。
そこで私はお宅に伝わる名刀をお借りしたいため、3
年お仕えしたところです。
なにとぞ私の心情をお酌み取り下さい」
と懇願したところ、主人は同情して二尺有余の名刀を貸し出した。
一方、蒲生の池の主も水梨村の中屋(屋号)から
同家に伝わる名刀を借り受けて、
「もし私が戦に勝てば一週間後に屋根の棟上にお返しする。」と約束した。
鼻毛の池の主も同様に、
「私が勝った際には屋根の棟に野々海の池の主の蛇骨の一片と
共に名刀をお返しする」
と言うことを誓ったが、高沢家の3兄弟のうち、
長男と次男の二人が助太刀に行くことになったので、
吉日を選び決死の覚悟の上、一同出発した。
野々海の池の主もこのことを知り、信州森村の某家から
名刀を借り受けて時や遅しと待ち受けていた。

山頂に到着した一行は身支度万端。助太刀の二人に向かって、
「私達は赤の波となり、野々海の池の主は黒い波となって戦うが、
黒い波が出たらこれを切り、赤い波が出たら応援すること。
また野々海の池の一族は動物に姿を変えて池から逃れようとするから、
一匹残らず切り捨ててくれ」
と約束して出で立った。

乱闘は一進一退。助太刀の兄弟も池からはい上がる動物を
切って捨てること七日七晩に及び、池は真っ赤な血の池と化し、
ついに積年の恨みをはらして、鼻毛・蒲生の池の主は
それぞれの池に戦勝の凱歌をあげたという。

この戦いに使われた名刀は、
一週間後に直径六寸厚さ四寸くらいの蛇骨と共に
高沢家の棟上に返されたが、
蛇骨を三等分して、一片を信州に、一片は同家から分家した
大荒戸村の高沢家へ届け、家宝として保存されたという。
その後、野々海の池は主を討たれ一族郎党皆殺しにされたので、
池は乾き池底は草木の生える状態となったが、
絶滅したと思われた一族に三名の遺子が残存し、
ひそかに鼻毛・蒲生の池の主を仇敵と狙って
剣を磨いているとの話しが伝わった。
これを聞いた両池の主はすでに老齢であり、彼らの剣に敵せずと、
鼻毛の池の主は中頸城の某池へ、蒲生の池の主は中魚沼の七ツ釜に
それぞれ身を隠したといわれている。
野々海の池の遺子達も討つべき相手を失ってその志を捨て、
どこかへ去った後は荒れ果て、
蒲生の池も田んぼとなり、昔を偲ぶ何物もなくなり、
鼻毛の池のみ山頂に満々と水をたたえている。
  1. 2006/10/22(日) 07:22:30|
  2. コラム

坂口安吾と松之山

坂口安吾(1906-1955)
1906年 新潟市に生まれる。
1930年 東洋大学文学部印度哲学科卒業。同人誌「言葉」創刊。
1931年 「言葉」廃刊。後継誌『青い馬』を創刊。
同誌にて『風博士』『黒谷村』発表。
1946年 『堕落論』『白痴』発表。
太宰治、石川淳らとともに新文学の旗手と称される。
1947年 梶三千代と結婚。『不連続殺人事件』発表。
1955年 脳出血のため死去。享年49歳。

坂口安吾は姉セキが嫁いだ松之山の村山家に度々訪れています。
大棟山美術博物館にはゆかりの品が展示されています。

○松之山が舞台となっている作品
坂口安吾は『黒谷村』『不連続殺人事件』
『逃げたい心』などで松之山を舞台にしていますが、
中でも『逃げたい心』では前編を通して松之山が書かれています。
少し引用すると…

「長野から三四時間の旅程で、すでに越後の温泉であるが、信越国境を越えてまもない山のどん底に、松之山温泉というものがある。単に山底というばかりで特別奇も変もない風景であるが、松山鏡の伝説の地と伝えられているところで全く都人士の訪う者がない。そのくせ奈良朝の頃には京と奥州を結ぶ道筋に当たっていたところで、大伴家持が住んだと伝えられる土地もあり、言葉や柔和な風習なぞにも多分に京の名残りがあって、交通の不便な頃は却って賑やかな温泉であった。」

「松の山温泉から一里はなれた山中に兎口(おさいぐち)という部落があり、そこでは谷底の松の山温泉と反対に、見晴らしのひらけた高台に湯のわく所があった。」

○安吾ゆかりの場所
大棟山美術博物館
安吾文学碑
安吾岩
安吾の散歩道

  1. 2006/09/11(月) 15:20:01|
  2. コラム

謡曲「松山鏡」と落語「松山鏡」

松之山には青海町「山姥」と並んで越後二大伝説の一つ「松山鏡伝説」があります。

○松山鏡
大伴家持が隠棲した中尾の地で、土地の女との間に京子という美しい娘を授かった。しかし母親は流行病で死んでしまう。京子は継母の折檻に耐えられず、ある夜形見の鏡を抱いて池の畔で泣いていると、水面に母の姿を見た。それが自分の姿とも知らずに母をしたって池に飛び込んで死んでしまう。いつしかその池は「鏡が池」と言われるようになった。

この伝説は、後に尋常小学校の教科書に載り、また謡曲や落語としても親しまれるようになりました。

○謡曲「松山鏡」
能の一。五番目物。早く母を失った娘が、その形見の鏡に映る自分の姿を母だと思って懐かしんでいると、やがて母の霊が現れ、娘の孝養の功力(くりき)によって成仏する。

越後国松之山に住む男は、妻の三回忌の命日に持仏堂へ向かう。すると、そこにいた自分の娘が何かを隠すので、世間の噂のとおり、新しく迎えた継母を呪詛しているのだと思い叱る。しかし隠したのは亡き母が遺した鏡で、娘は鏡の中に母の姿が見えると慕い泣く。鏡に映る自分の姿を母と信じていたのだ。
 そこに、あまりの娘の心に感じて地獄から母の霊が戻って来、鏡にまつわる説話を語る。そのうち地獄から倶生神が現れ、母を連れ戻そうと鏡に娑婆での罪科が写っていると母に示すが、そこに写っていたのは菩薩の姿だった。娘の孝行心の故である。胸を打たれた倶生神は母を連れることなく、地獄へ戻っていったのだった。

○落語「松山鏡」その一
むかし、その村に父親のお墓参りを毎日かかしたことがない正助さんというひとりの男が住んでいました。その評判がお殿様の耳に入り、正助さんはお殿様からごほうびに「死んだ父親にいつでも会うことのできるという不思議なつづら」をもらいました。
 しかし、ひとつだけお殿様と約束をさせられたのは「このつづらは、誰にもみつからない場所に隠しておいて、誰もいないときだけ、ふたをあけて中をのぞきなさい」ということでした。実は、そのつづらの中には、当時その国中に一枚しかないといわれた宝物の鏡が納まっていたのです。
 そうとは知らない正助さんは、大喜びで家へ帰って押し入れの中に、つづらを隠して、「いやぁおやじさん、こんなところに元気でいらっしゃったのですか」と、中の鏡にうつった自分の姿に向かって、こっそりと毎日毎日語りかけていました。
 そんなことを続けていると、女房が不審に思い出した。「どうも、うちの人は押し入れに何か隠しているようだ。いっぺん覗いてやろう」と、押し入れのつづらのふたをとって、びっくりした。女が隠してあったというのです。よりによって、ぶさいくな女が。
 もうこうなると、「あれは死んだおやじだ」いや「女だ」と、つかみ合いの夫婦喧嘩です。そこへ、たまたま通りかかったお坊さんが、「それじゃ、わしが見とどけてやろう」と、つづらをのぞいていったそうです。「お前たちが、そんなに喧嘩をするので、中の女はおもしろくねぇといって、頭を剃って坊主になったぞ」こういうお話です。

○落語「松山鏡」その二
その昔、大変親孝行な男がおりまして、両親が亡くなってから18年、かかさず墓参りをするといった具合でした。このことが領主に知れ、褒美を下されることになりました。ところが、男は褒美はいらないから、もう一度父親に会わせて欲しいと願います。領主は一計を案じて、男に鏡を与えます。当時、鏡は大変貴重な品で、一般のものはなかなか見ることができませんでした。ですから、男は鏡に映った自分の姿を父親だと思いこみ大変感激します。
 男は、この鏡を自宅の納屋の中にしまい、朝は「父っつぁま、行って参ります」と言って出かけ、夜は「ただいま帰ってまいりました」とやっております。これを奥さんが勘違いした。どうも最近、夫の様子がおかしい。納屋になにかあるんじゃないか。そんなある日、夫が出かけた後に、こっそりと納屋に忍び込み、鏡を見つけます。こちらも鏡を見るのは初めてですから、鏡に映った自分の姿を見て、「あれぇ、あの人ったら、どうも最近様子がおかしいと思ったら、こんなところに女を隠していたのね。悔しい!」と嫉妬してしまいます。
 これまで口喧嘩したことさえない仲睦まじい夫婦だったのですが、この夜は大喧嘩。そこへ近くの尼寺の住職が通りかかって、二人の話を聞き、一緒に問題の納屋に行きます。
 納屋にしまわれていた鏡を尼僧が見て、にっこり。「お前たちが、あまりにも派手にけんかしたから、中の女はバツが悪くなって坊主になった」

○起源
元々はインドの民話、中国に伝わり日本へ。
滑稽話でもあり悲惨な話でもある 「松山鏡」 。本当の鏡というものを知らない人の人生がどうなるのか?行く末を暗示している話。私の目で見たから、私の耳で聞いたから…と、とかく( 自分の感覚という鏡 ) に映ったものをホントウだと思い込んでしまいがち。「経教は之を譬ふるに鏡の如し」。中国浄土教の大聖者・善導大師は「私」ではなくお経(お釈迦様の説法)こそがありのままをありのままに映し出す鏡だとおっしゃった。

鏡ヶ池公園



  1. 2006/09/10(日) 16:15:36|
  2. コラム

上杉房能と松之山

●上杉と越後
征夷大将軍に任ぜられた足利尊氏は、
いとこの上杉憲顕を越後守護に任命しました。
これが越後と上杉氏の最初の関わり合いです。
1340年頃と考えられており、国府(直江津)に本拠を置きました。
上杉氏は後に、山内・扇谷・宅間・犬懸・庁鼻・越後などに
分かれましたが、憲顕は山内上杉氏の祖となります。
越後守護職は憲顕の子憲栄へと伝えられ、
この憲栄が越後上杉氏の祖となります。

●長尾と越後
長尾氏は相模国高座郡長尾郷が本拠。
何らかの伝手で上杉家に仕官し、
新田義貞軍との戦いで戦功があり越後守護代に任ぜられました。
初代越後守護代は長尾景恒でその子孫が守護代を相続することになりました。

●上杉房能

上杉房能は憲顕から数えて、7代目の越後守護(1494年)です。
世は下剋上。
1507年8月1日、守護代長尾為景は房能の養嗣子定実を擁立し、
房能排斥の兵を挙げました。
府中を追われ、兄である関東管領上杉顕定を頼って逃亡。
ついに松之山まで落ち延びたましたが、8月7日午後2時頃、
眼下に見える信濃川には為景の大群がひしめき、観念して自刃。
実は大群に見えたのは信濃川の石であった。。。

●房能と松之山温泉
房能には嗣子が無く、娘の「かみ」に婿を迎えることになり、
1503年結婚式を挙げることになっていました。
ところが、かみに「はれもの」ができたため延期して、
松之山温泉で湯治。
はれものも良くなり、その年の暮れには
無事祝言を挙げることができたそうです。

●管領塚
管領塚についてはこちらをご覧下さい
  1. 2006/09/09(土) 17:28:32|
  2. コラム

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